大型ヒラスズキの行方|知っていたからって釣れるわけじゃないけれど…《アーカイブ from 2010》 | SWマガジンweb | 海のルアーマンのための総合情報メディア

大型ヒラスズキの行方|知っていたからって釣れるわけじゃないけれど…《アーカイブ from 2010》

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大型ヒラスズキ ヒラスズキ釣り1

体が大きく大きな生産力を持っている大型個体を集中的に取ってしまうと、資源の回復には膨大な時間がかかることになる。大型ヒラスズキの話が「昔々あるところに」で始まるお話とならないように…

文:宇井晋介

※このエッセイはSWマガジン2010年3月号に掲載されたものです。

「懐メロ」ならぬ「懐釣り」

最近、昔の歌が懐かしい。特に高校生や大学生のときに聞いていた歌が流れてくると、思わず心がタイムスリップしてしまう。あれ、俺も歳か? そんな気持ちが頭の隅をふとよぎる。

だが、よくよく考えてみれば、僕がその年代に聞いていた歌はすでに「懐メロ」というジャンルに入っているのである。僕たちがそのころ、昭和一桁の人たちの歌を聞いて「なんだ懐メロか」とどこかバカにしたような思いだったのが、今や自分が懐メロ世代なのだと気がつく。たまに当時のトップスターであった井上○水や南○うせつなんかがテレビに出ていると「おお、お互いに老けたなあ‼」なんて妙に親近感を持ってしまう。ましてや当時のアイドルであった天地マ○や小柳ル○子なんかを週刊誌の片隅にでも見つけてしまったときなどは、懐かしさよりも先に自分の思い出がガラガラと崩れて思わず閉じてしまうのである。

本当に時間というのは残酷である。時間は戻らないというが、まさに時間は砂時計の砂のごとく一方的に流れるだけなのである。

だいたいが「昔は…」なんて言葉を使い出したら、実年齢はともかく「老い」の仲間入りをしたと見て差し支えない(キッパリ)。もっとも、小学生でも「これまで生きてきた中で最高の経験でした」なんて、まるで100年くらい生きてきたかのようなモノいいをするヤツがいるが「そんな歳から人生すべて分かってしまったら、50過ぎたらどうなるねん」と茶々を入れたくなる。

でも、僕もこの「昔は…」というフレーズをしゅっちゅう使っていることに気づいて愕然とする。「昔はもっと釣れた」「昔はもっと魚が大きかった」「昔はもっと人が少なかった」等々、自慢とも愚痴ともいえないような言葉の数々。いや情けない。昔の釣りはとうに「懐メロ」ならぬ「懐釣り」になっていることに気がつかず、ああだこうだといっているのは「昔の歌はよかった。今の歌は本当にくだらん」といっている愚痴ったらしいジイさんとなんらかわらない。

そんなことに気がついて、釣りに関して昔のことはなるべく口にすまいと思っているのだが、その心とは裏腹にことあるごとに出てくるのは昔の話ばかり。なんならそのうちに紙芝居屋でも始めようかと思えるくらいである。

昔という言葉の概念

ところで「昔」というのは、いったいいつごろから前のことをいうのだろうか。「昔」を辞書で引いても、いつからという定義はないようである。学生なのに毎日釣り三昧で暮らしていたのも昔なら、小学生のころにクラスの女の子を初めて好きになったのも昔、もっともっといえば三葉虫が海底を這い回り、ブロントサウルスが沼地でのんびりと水草を食んでいたのも昔である。

でも、ネット上のブログで「携帯電話は昔は安かったのに今はなんで高いのか」とか「はるな愛は昔はおとなしめだったのに、なんで今はあんなに騒がしいキャラなのか」なんて言葉が飛び交っているのを見ると、あるいは今日から前、つまり昨日から以前のことはみんな「昔」なのかもしれない。

なんて言葉遊びみたいな考えが頭の中をクルクルと回っていたが、ふと思いついた。そうだ、昔という言葉は一定の時間という概念ではないのだと。たとえば、ブロントサウルスが生きていた昔と、はるな愛の時間とでは時間の長さが違うのだということである。つまり、生きものの世代が交代していくのと、テレビのタレントの世代が交代していくのとでは時間の長さが異なるのである。

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