雑魚と呼ばれる魚たちの復権 ~里海資本主義~|知っていたからって釣れるわけじゃないけれど…《アーカイブ from 2014》
海の問題は山より深刻
長々と書いてしまったが、それでは冒頭の里海資本主義とはなんぞやということであるが、実は緑に包まれた山里と同じことが青い海が目の前に広がる漁村でも起こっているのだ。近所の回転寿司店を覗いてみればその原因はすぐに分かる。レーンの上を流れてくるシャリの上にはさまざまなネタが乗っているが、その正体はそれこそグローバル。世界中の魚介類が1軒の回転寿司店で見られる。
ちなみに、某有名回転寿司のネタの産地をちょっと見てみよう。ツブガイ、ズワイガニはロシア、サケはチリ・ノルウェー、エビはアルゼンチン、タラ白子はアメリカ、マグロはオーストラリア・メキシコ、アナゴは韓国、カレイ、エンガワはカナダなどなどメニューのほとんどが外国産で、国内産はブリ・シマアジ・アジ、ノリなどごくごく少数派だ。これらがすべて1皿100円で食べられるということにまず驚きだが、これだけたくさんの魚介類が飛行機や船で日本に続々と輸入されている事実にもびっくりする。輸入されているということは、それだけ多くのお金が代金として外国に出ていっているということだからである。
つまり日本でまかなえばお金は日本に残るのに、外国から買うばっかりにお金がなくなる、つまり国は貧乏になるわけである。かといって、今の回転寿司のネタをすべて国内産に切りかえればどうなるか。まず最初に仕入れ値が数倍に跳ね上がる、そして品薄になって回転寿司のメニューは激減してしまうだろう。今の日本には残念ながらそれをまかなうだけの資源量も、また仮に資源があったとしてもそれを取るだけの労働力もないからである。
海の問題は山より深刻だ。資源が海という入れものに入っている限り、外国の漁業者に取られてしまうことは避けようがない。また、林業のように木を植えてそれを育てるということも限りがある。魚の子どもを放流するにしても、樹木と違ってそれらが食べて育つ餌まで計算しないと逆に他の資源を食い尽くすことにさえなってしまう。
それに人間に都合のいいものだけを増やすという行為は、海の中の生態系のバランスを大きく崩すことになる可能性もある。
里海資本主義
では、海でそうした試みは難しいのか。そんなことはない。たとえば、これまで利用されていなかった魚介類の利用。いわゆる雑魚と呼ばれる魚たちの復権だ。釣り師にも心当たりがあろうが、私たちは往々にして食べものに対して保守的である。またブランド志向が高い。たとえばカンパチ・ヒラマサ・スズキ・タイ・ヒラメがハリに掛かれば大喜びするのに、フグ・スズメダイ・ダツ・ネズミゴチ・カゴカキダイが掛かれば大方の釣り師は舌打ちをする。そして、それを防波堤に放り投げるか、よくて足で海に蹴り落とす。
もちろん味は違うが、これらの魚たちはすべて食べられる(生まれついて毒を持つ魚はフグとハゼの1種だけである)。
こうした未利用魚を積極的に利用し、新しい水産物として利用する試みがあちこちで行なわれている。これは私たち釣り人も大いに反省し、実践すべきことである。仮に釣り人がこれまで食べなかった魚に意外なおいしさを見い出して食べるようになれば、その釣り人が「店で買って」食べるであろう輸入魚はいらなくなる→輸入しない→お金が国外に出ていかない→日本が豊かになる(ホンマかいな)という式が成り立つ。
また、海の場合にはもっと別の利用法がある。それは遊漁である。たとえば1匹のハマチを漁師が釣り上げて市場に卸す。おそらくその値段は一般の消費者からすればびっくりするほど安い。ところが、このハマチを釣り人が乗合船に乗って釣り、持ち帰って食べれば、同じ魚が何倍もの価値を生み出す。また、ダイバーが潜って写真を撮っても魚はちっとも減らないが、魚は価値を生み出す。同じ1匹の魚が利用の仕方しだいでは何倍もの価値を生み、それが漁村を、田舎を豊かにしていくのである。
魚が取れなくなった海は経済価値がないから忘れられてもかまわない。その方が釣りに都合がよいと思う釣り人はさておき、港に船の音が響き、威勢のいい漁師たちの声が聞こえる漁村、そしてそれを取り巻く里海を釣り人としてともに愛してほしいと思うのは私だけではないだろう。
【宇井晋介・プロフィール】
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