パイオニアの釈迦スタイル《PART1》 | SWマガジンweb | 海のルアーマンのための総合情報メディア

パイオニアの釈迦スタイル《PART1》

海のルアー釣り オフショアジグング1

場所、タイミング、道具でジギングは完結する。後はとことん釣り場に通って潮の動きによる時合的なものを感じ取るセンスを磨けば…

解説:永井誠一

アングラーとしてのルーツ

私はもともと磯釣りや船釣りが大好きで、高校時代から頻繁に釣り場に通った。実家が商売をしている関係で取引先や知り合いに釣り好きがたくさんいたから子どものころから釣りに連れて行ってもらう機会も多く、環境には相当恵まれていたのかもしれない。

当時は海のルアーフィッシングというジャンルは確立されていなかった。雑誌で少し紹介されていたのを見て、ミノープラグをつけてシーバス狙いのまねごとをやった記憶があるぐらいだ。餌釣りの方がまだまだ魅力的だった時代であり、海のルアーにはそれ以上の興味が湧かずどんどん餌釣りにハマッていった。

20歳ごろからさらに熱が上がり、沖縄や離島への遠征を繰り返すほどハマッた。数年後にはとうとう沖縄に移住し、本格的に釣り三昧の生活が始まった。そのころ、沖縄の寄宮釣り具センターで不幸にも?茂木陽一氏と出会い、いよいよ歯止めがきかなくなった(笑)。

茂木氏とコンビを組んで、沖縄から八重山へ、さらには小笠原へとフィールドをかえながら磯の大物を狙って遠征三味の生活を送るようになった。磯の上にブルーシートを張って寝たサバイバル生活が懐かしい(改めて当時の写真を見るとホームレス同然だが)。

そのころ、小笠原遠征のメンバーから海のルアーを教えていただき、餌釣りからルアー釣りへと自身のスタイルにも変化がでてきた。そのメンバーというのが、チャーマスこと北村秀行氏、村越正海氏、アングラーズハウスのスタッフなどトップクラスの人ばかりであり、私の釣りバカにもさらに拍車がかかってしまった(笑)。SWゲームフィッシングマガジンの主幹であった松井謙二氏ともこのころからのお付き合いである。

地元の京都に帰ってからは「関西スポーツフィッシングトーナメント」を三重県錦にて3年連続で開催した。どちらかといえばシイラ釣りがメインであり、ナイロンライン+ロングロッドでのジャーク&キャストが主流だった。チャーマス風のアングラーが関西でも増殖したころだ。

同時期に、地元の若狭湾でもルアー釣りを流行らそうと努力した。しかし、遊漁船はたくさんあるものの、いかんせんルアー釣りをまったく知らない(興味もない)船長ばかり。手当たりしだいに飛び込みでルアー遊漁の交渉をしたのは懐かしい思い出だ。そんな中、ヘリーハンセンの長靴を履いて操船するなど、他の昔ながらの船頭とは雰囲気が違うと直感した天遊丸(現オンリーワン)の天田船長と意気投合し、ルアー遊漁を始めてもらった。当初は水深50㍍ぐらいのポイントを重点的にメタルジグで狙い、玄達瀬にも幾度となく遠征したが結果は散々。ハマチ級を釣るのがやっとの状況で、かなり高い授業料を払うこととなった。

その翌年あたりからPEラインを巻いたベイトリールとショートロッドによるハイピッチジャークのスタイルが注目され始め、すぐに導入したところ釣果が飛躍的に向上した。その釣りのパイオニアである佐藤統洋氏とはこのころからのお付き合いである。その後、念願かなって「若狭湾ジギングトーナメント」というジギング大会を開催させていただき、5年間継続することができて若狭湾にもルアー遊漁が定着した手応えを感じた。それと並行して奄美大島へも頻繁に遠征した。PEラインの導入以後、しばらくは釣り方の進化にタックルがついていけずロッドやリールの破損が頻発したが、今思うと専用品など何もないところからジギングタックルの制作に携わることができ、大変おもしろかった時代でもある。

海のルアー釣り オフショアジグング2

すべてを釣りに捧げた20~30代。失敗も多かったが、常に気持ちは高揚していた。

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