パイオニアの釈迦スタイル《PART3》
衰退を続ける今の海をこのまま放っておくと、ヒラスズキをはじめとしたゲームフィッシュの多くが近い将来に絶滅してしまうかもしれません。"持続"と"弱欲"という2つの意識をほんの少しでも心の片隅に置いておけば…
解説:宇井晋介
アングラーとしてのルーツ
海のルアーフィッシングを本格的に始めたのは社会人になってからのことで、広大なフィールドを有する岩手県の三陸海岸に住んでいた大学生のころは渓流やダム湖でのルアーとフライFにハマッていた。休日(それ以外も?)には必ず釣行し、特に小型のスピナーやスプーンを使った渓流釣りに夢中だった。遠野の近くのダム湖の流れ込みで初めて釣った銀ピカのサクラマスのことは、そのポイントやトレースコース、使っていたルアーまで今でもまざまざと思い出せる。
串本海中公園に就職してからも忘れられずに毎週渓流に通っていたが、3年が過ぎた1982年に転機がやってきた。沖縄県の八重山への転勤が決まったのだ。当時、まだ釣り人などほとんどいないサンゴ礁で、3年間大物たちと渡り合った…と書きたいのだが、大きなロウニンアジを数知れずヒットさせたものの残念ながらほとんどキャッチできなかった。浅いリーフ内からのキャスティングであるうえ、まだラインシステムの概念が日本に入ってきたばかりのころで結び方さえよくわからなかったのだ。
東京出張を利用して出回り始めたばかりのGTロッドを買い求め、輸入品の大型プラグとともに飛行機で持ち帰ったことが懐かしい。もっとも、そのプラグのほとんどは魚に献上してしまった。リーフからフライでロウニンアジを釣ろうとしてバッキングラインをすべて持っていかれたり、西表島でフライでテッポウウオ釣りにチャレンジしたりと、できそうなことは手当たりしだいにやった感があった。
串本に戻ってからはヒラスズキゲームに没頭した。これまた、そのころの当地では専用タックルを入手することができず、人生初のヒラスズキは9㌳のシーバスロッドで釣った。それでも当時の海は豊かであり、カリカリしながら通わなくても行けば釣れるのが普通だったし、その多くが80㌢オーバーだった。そうしたこともあって、1年中磯に立っているというほど入れ込むことはなかった。
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