魚は誰のものか?|知っていたからって釣れるわけじゃないけれど…《アーカイブ from 2011》
魚が満ち溢れる豊かな釣り場を作るには…
話が少し逸れてしまったが、そんなことで一見理想の計画のようでもある会社化、共同化は現在暗礁に乗り上げた形になっている。現地の担当者は調整に大変な苦労をしていることだろう。どこかの大臣に命令口調でいわれるまでもない。ただ、純粋に日本の漁業資源の将来を見たとき、将来のためになるのは果たしてどちらなんだろうか。
後継者不足が深刻な漁業については前から国有化、つまり公共事業化や会社化の話は出ていた。それは現在の資源の乱獲や、ひいては枯渇を招いたのは過度な競争にあるという考えがあるからである。
確かに漁業者にはどこにも共通の考え方がある。それは「俺が取らなくても誰かが取ってしまうから、今、俺が取る」というものである。しかしながら釣り人ならご存知だと思うが、魚をはじめとする水産資源は漁業者のものではない。海の憲法である国連海洋法や日本の海洋基本法では、魚をはじめとする漁業資源は「人類共有の財産」であるとされている。
だから、魚は漁業者のものでもあるけれど、同時に漁業を営んでいない普通の人々のものでもあるということである。ただ違うのは、漁業者は「魚を取る権利を持っている」ということである。これを漁業権といい、漁業者は漁協の組合員となる、つまりお金で組合員となって漁獲した魚を漁協に出すことで生活している。
簡単にいえば漁業者はお金で魚を取る権利を買っているのだ。だから魚は漁業者のものではないけれど、取る権利は漁業者のものということであり、はなはだややこしい。
海や魚の中途半端な位置づけが…
ただ、この曖昧さが日本の漁業資源を枯渇させていると私は思っている。釣り人は海も魚もみんなのものなんだから漁師が勝手に規制をしたり、縄張りを主張したりするのはおかしいとよく主張する。確かに海で釣りをしているとそうした光景によく出くわす。「ここは○○の管理だから●●は取ってはいけない」というあの看板である。
海や魚は人類共通の資源であるという法律からするとこれはおかしい。特に都会から田舎にやってくると、何で田舎の人間は海の近くに住んでいるだけでそうした権利があるのか。都会の人間も権利はあるはずではないかと憤慨する。確かに道理である。
しかしながら、よくよく考えてみると今の魚をはじめとする資源の減りようは、漁業者も釣り人も、そして一般の人も結局、海は自分(だけ)のものではないという考えからきているのではないか。人のものでもないが自分のものでもないという中途半端な海や魚の位置づけが、結局は先の「俺が取らなくても誰かが取ってしまうから、今、俺が取る」という考えや行動に通じてしまっているのではないだろうか。少し胸に手を当ててみれば分かるが、この考え方は決して漁業者だけのものではないだろう。
では、どうするのがよいか。将来、魚が満ちあふれる豊かな釣り場を作るにはどうしたらよいのか。1つには誰かに所有権を与えてしまうという考えがある。自分のものだと思えば人は大事にする。海を漁業者だけのものにしてきっちりと組織的に管理させれば、おそらく遠からず資源は回復するだろう。
でも、そうなれば私たち釣り人や国民は自由に海で遊べなくなる。かといって、釣り人にも普通の都会生活者にも海の資源や環境の管理はできない。ましてやこの震災を機に海をどこかの会社が管理するということになるかもという現実も、何となく薄ら寒い印象がある。
でも、海の利用の管理を誰が責任を持ってやっていくかは、原発問題のように曖昧なまま先延ばしにするのではなく、皆で一緒に考え直すべきときにきているのではなかろうか。
【宇井晋介・プロフィール】
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