魚は誰のものか?|知っていたからって釣れるわけじゃないけれど…《アーカイブ from 2011》 | SWマガジンweb | 海のルアーマンのための総合情報メディア

魚は誰のものか?|知っていたからって釣れるわけじゃないけれど…《アーカイブ from 2011》

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釣り・漁業1

海の利用の管理を誰が責任を持ってやっていくか? この問題は皆で一緒に考え直すべきときにきてるのではないだろうか…

文:宇井晋介

※このエッセイはSWマガジン2011年9月号に掲載されたものです。

競争原理と漁

2011年3月11日はこの先、永遠に日本の歴史に残る負の一ページになった。紙や口伝えに残すしかなかった大地震や大津波の様子は、今後は未来永劫詳細に伝えられていくことだろう。また原発を取り巻くさまざまな問題も、この先、日本の歴史を大きく塗りかえていくことになるのは明白だ。

こうした大問題の陰に隠れてあまり目立たないが、もう1つ、釣り人にとって見逃せない変化がある。それは日本の漁業のことである。大震災は東北沿岸の漁業に壊滅的被害を与えた。東北で漁業に携わっていた漁船のほとんどが流失したり壊れたりして使えるものが激減した。港で魚を水揚げしたり、加工したりする施設も壊滅に近い状態にある。

中でもほとんどが漁業者の個人所有である船は高価なものである。そのあたりにいくらでも走っている小型漁船でも一戸建て住宅や高級外車が買えるくらいの値はするし、マグロの延縄船ともなれば数億円はする代物である。だから漁師さんたちはローンを組んだりして手に入れる。

その船がそっくりそのままなくなってしまったわけだから、その絶望感たるや想像するに余りある。新しく船を造るとなれば、なくなってしまった船のローンと新しい船のローンを合わせて払わなければならないことになるわけで、これまでの倍のお金を稼ぎ出さなければならない。そうでなくとも後継者がいなくなりつつある日本の漁業、倍の苦労をしてまでゼロからスタートしたいという人が減るのはしようのないことだろう。

そこで出てきたのが漁業を会社のような形にして経営するという話である。個人では買えない船を会社組織が出資して造り、それを漁業者に貸し与え、漁業者は会社から給料をもらういわゆるサラリーマンとなるのである。

漁業は収入の不安定な職業である。養殖などの一部漁業を除いては農業と違って純粋な自然の資源が相手の仕事だから、自然の変化で収入が絶えず変化する。もちろん一発当てるという一攫千金の楽しみがある商売ではあるわけだが、当たらなければたとえ高価で優秀な装備の船に乗ろうとも1円の収入にもならない。その点でみんなで稼いでみんなでわけるという考え方は、リスクを冒してまで高価な船を持たないでもよく、また収入も安定するというバラ色の計画のようにも思える。

事実、こうした方式を取り入れて会社組織でやっているところもある。たとえば、ブリなどを取る大型定置網ではずっと前からこうした方式を取り入れている。会社組織が船や網を作り、船に乗る人間を雇う。給料はサラリーとして払われるので文字通りサラリーマン漁師である。

でも、今度の東北地方でのサラリーマン化案には漁業者の中でも賛成、反対がある。それは賛成と反対の漁業者の置かれた立場を反映しているという。すなわち今回の地震で被害が大きかった漁業者は賛成、少なかった漁業者は反対というのである。

つまり、すぐにでも漁業を再開できる漁業者は会社組織などにしなくても今まで通りやりたいといい、船も何もかもなくしてしまった漁業者は会社にしてほしいといっているのである。これを話し合いで解決するのは簡単でないことは容易に想像できる。

漁師の仕事は板子一枚下は地獄という。確かに漁業は一攫千金の仕事であるが、絶えず危険と隣合わせ。漁師の仕事はある意味でバクチである。これがいわゆる「男の浪漫」っていうヤツであり、歌になる。

確かに漁師の歌は腐るほどあるが、百姓の歌はとても少ない。農業だって浪漫がある職業だと思うが、漁師の潔い、1匹狼的な、わるくいえば明日は明日の風が吹く的な考えとは根本的に異なる。だから多くのフツーの漁師は「俺は誰にも雇われたくない。そんなのは漁師じゃない‼」という考えの持ち主である。

釣り・漁業2
歌にもなっているように、漁師さんならではの美学や価値観もあるから…。

フツーの漁師はいう。「だってたくさん取っても取らなくても給料がかわらないんじゃ、誰が危険を冒してまで魚を取るかいな」 確かに一生懸命がんばって魚を取った人も、そのあたりを船でぐるっと1周してきた人も給料が同じなら、誰も危ない目をしてまで魚を取ろうと思わないに違いない。そうなると漁獲効率は一気に落ちてしまうことだろう。

また、漁業は一見するとのんびりした職業に見えるが、実はそうではない。漁業者1人1人が毎日魚を取るための工夫を重ね、漁法の改善に励んでいるのである。ときおり大間のマグロのドキュメンタリーをやっているが、仕掛け部分はいつもぼかされている。これは1人1人が仕掛け1つにも常に工夫を凝らして競争しているからである。この日々の競争のおかげで私たちは毎日新鮮な魚を安く食べることができるのである。

旧東ドイツや旧ソ連を例にあげるまでもないが、競争原理がなくなれば残念ながら人間は楽な方に流れるのである。競争のない豊かな社会は確かに素晴らしいだろうが、豊かになるためには誰かが一生懸命に働かなくちゃならない。一生懸命働くためには、常に切磋琢磨し、誰かと競争しなくちゃならないというのが悲しいかな私たち人間の宿命であるらしい。

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